コラム

イタバシュラン短編小説集 板橋の小さな夜 vol2

JR板橋駅前のツタヤの前にある踏切を渡って右に折れ、すれ違うのも難しいほどの細い飲み屋街を歩く。

前に一度だけ行ったことがある、BAR「ファンファーレ」に僕は向かった。

扉を開けると、カウンターに座っていたマスターが、僕の顔を見るなり微笑んだ。

「いらっしゃいませ。一日お疲れさまでした。」

僕は小さく頷いて店内に入る。カウンター席3つと、テーブル席が2つあるだけの店内は、週末だというのにガランとしている。

「1人だけど、いいかな」

絞り出すように声を出す。僕はこの時初めて、自分が久しぶりに声を発したことに気づいた。

「もちろんです。助かります」

マスターはそう言うと、手慣れた様子で僕におしぼりを差し出すと、誰にでもなく小声で「ビールですよね」と呟くと、冷蔵庫から瓶ビールとグラスを差し出してくれた。

「よく、覚えてくれてたね。1回しかきたことないのに」

僕がそう声をかけると、マスターは照れた様子で「仕事ですから」と答えた。

薄暗い店内に、薄く洋楽が流れている。僕はマスターの何気ない言葉と気遣いに気分を良くする。

「マスターも、もし良かったら一杯どうぞ」

「ありがとうございます。いただきます」

「週末なのに、少し寂しいね」

「そうですね。急に寒くなりましたし。まあ、この後混んでくれることを期待します」

マスターの笑顔を見て、ビールに口をつける。

数か月前に、夏が終わるころに一度だけここを訪れたことがある。

僕はその日、可愛がっていた以前の職場の後輩と飲んでいて、珍しくもう1軒だけ行こうと盛り上がり、この店に入ったのだった。

居酒屋ではハクがつかない、キャバクラでは落ち着かない、そんな僕がくだした結論がBARだった。

後輩を連れて、気を大きくした僕は普段訪れることもないBARの敷居を跨いだ。

確か、以前もカウンターに座り、4.5杯飲んで、マスターとも一言二言会話をした。

それだけの店だった。僕はその後、仕事に追われ、後輩とも疎遠になり、気が付いたらこの店の存在も忘れ、そして冬を迎えようとしている。

2杯目のビールを飲み干して、カウンターに並べられた酒の瓶を眺めながら、3杯目をハーパーソーダにしようか悩んでいた。

ガチャ

扉を開ける音がして、ふいに乾いた冷気が店内に入ってくる。

「いらっしゃいませ」

「1人なんですけど・・・いいですか?」

「もちろんです。どうぞ、寒いので中にお入りください」

僕が座っている席からは、見えないが、声で女性だということは分かった。

「お席はカウンターでも、テーブルでもどちらでも結構ですよ。」

「1人だから・・・すいません、となりいいですか?」

「はい、もちろんです。」

僕はリュックを足元に避けて、席を作る。

女性がつけている甘い香水の匂いがほのかに香る。

3人で過ごす板橋の夜が始まった。