コラム

イタバシュラン短編小説集 板橋の小さな夜 vol4

名前を聞くと、女性は「マキって呼んでください」と言った。

僕らは、一瞬だけ訪れた僅かな休息を確かめるように、噛みしめるように夜を過ごしている。

お酒を飲みながら、音楽を聴きながら、たわいもない話をしながら・・。

再び訪れる朝を恐れるように、受け入れるように、少しずつ少しずつ時間を重ねていく。
僕はこの夜が終わってしまうのが嫌で、お酒を飲み続ける。

「マスター、もう1杯だけ。ソーダ割をください」

「ありがとうございます。・・あ、炭酸が切れちゃってますね。すいません、ちょっと買ってきます」

「そうですか、じゃあ水割りでもいいですよ」

「いえいえ、買ってきますよ。すぐそこにコンビニがあるんで。ちょっとお待ちください」

マスターはそう言うとダウンジャケットを羽織って外に飛び出した。

「なんか、悪い事しちゃったかな・・」

「外、寒いですからね」

時計は3時を回っていた。どうやらこのまま新たな客が入ることはなく朝を迎えそうだ。
マスターが出ていった余韻の寒さが現実を知らせる。

「すごい寒い。まだ12月なのに」

マキさんはそう言うと微かに震えた。小さな両手を広げて息を吐きかける。

「若干、息が白くないですか?」

「あ、ほんとだ。」

「手も、ほら」

マキさんはそう言うと両手で僕の右手を包み込んだ。冷たい掌の下に宿る微かな温もりが僕の中に入ってくる。

「・・・冷たいですけど、なんかあったかいです」

「なんですか、それ。意味が分からないです」

マキさんはそう言うと楽しそうに笑った。

僕らはしばらくそのまま手を重ねていた。

「今、お客さんがきたらびっくりしちゃいますね」

「本当ですね。マスターいないし、客は手を繋いでるし」

「もし来たら、どっちがお酒作ります?」

「僕やりますよ、だってただ割るだけでしょ?」

「違いますよ。意外と難しいんですよ。お客さんによって好みも違うし。」

「そういうものなんですか・・」

会話の内容なんてどうでもよかった。ただただ、手の温度が少しずつ温まってきて、存在を確かに感じられているのが嬉しかった。僕は甘えるとか、救われるとか、優しくされたいといった願望をどこかに忘れていたのだろう。少しでも長く、こうしていたい。素直にそう思った。35年間、重ねてきた僕の人生の夜の中で、こんなに眩しい夜は無かった気がする。

ガチャ

扉が開く音がする。

僕らはどちらからともなく、重ねた手を静かに外す。

「外、すごい寒いですよ。もう雪が降りそうなくらい」

マスターはそう言うと、いやー、まいったまいったと言いながらダウンジャケットを脱いだ。

「じゃあ、そろそろ帰ろうかな。これ良かったら・・」

マキさんはそう言うと、バッグから歌舞伎揚げを取り出し、カウンターに置いた。

板橋の小さな夜が終わろうとしている。