マキさんは、ハンガーにかけてあったトレンチコートを羽織ると、手編みののマフラーを巻いた。
前でクロスさせて後ろで結ぶその巻き方を見て、高校時代に好きだった女の子のことを思い出していた。
「来週、また来てもいいですか」
マキさんがそう言うとマスターは、何度か頷き「来週と言わずに毎日でも」と笑った。
「ありがとう。来週ね、誕生日なんです」
「そうだったんですね。おめでとうございます」
「では、また」
マキさんが店を出る。
急に静かになった店内にAdeleの「Someone Like You」の曲が切なく響く。
マスターが口を開く。
「・・・いいんですか?」
「え?」
「追わなくて。」
「・・・。」
「夜はまだこれからですよ」
「マスター・・・」
僕は意を決して席を立つ。
「右に行きました。まだ間に合いますよ」
「・・・ありがとう」
僕はファンファーレを飛び出した。
まだ暗く細い路地裏通りを駆け出す。コートも財布も煙草もすべて置いたまま夢中で走り出す。
途中、何度か看板にぶつかりそうになりながらも、慌ててマキさんの姿を追う。
滝野川通りに出ると、踏切の前で工事を行っていて、ネックウォーマーに首を窄めた中年の男が煌々と光る真っ赤な警棒を揺らしている。
僕は右に左に首を振って、マキさんの姿を探すと、巣鴨方面へ歩いていく後ろ姿を見つけた。
ここから30メートルほど離れたところに、マキさんがいる。
息を切らしながら声をかける。
「すいません!」
コンクリートを削るけたたましい機械の音と、行きかう車のエンジン音に僕の声はかき消される。
マキさんは気づかない。もしかすると、イヤフォンで音楽を聴いているのかもしれない。
「すいませーん!!」
僕はありったけの力を込めて声を発する。
警備員の一人が何事かという顔で僕を覗き込んだ。
マキさんが立ち止まり、そして振り向いた。
「あの・・・その・・・、僕にも祝わせてもらえませんか」
マキさんは立ち止まったままだ。
「あの・・・なんというか、今日会えてとても良かったというか、ご迷惑かもしれませんし、厚かましいかもしれませんが、とにかくあなたの誕生日を、僕にも祝わせてもらえませんか」
僕は夢中で叫んだ。
答えなんてどうでもよかった。でも、内側からこみ上げてくるこの強い気持ちを抑えることができなかった。
タクシーが一台、クラクションを鳴らして僕を追い越していく。
ヘッドライトの光に埋もれて一瞬見えなくなったが、マキさんは黙ったまま僕を向いて立ち尽くしていた。
そしてゆっくり、本当にゆっくりと、僕の方に向かって歩き出した。
僕も引かれるように、マキさんへ向けて歩き出した。