「えっと、202の松本です。お母さんが住むんですか?・・・てっきり、娘さんが住むのかと」
母親は一瞬キョトンした顔で僕を見たが、ようやく意味を理解して、大きな声で笑った。
「違いますよ。私が住むんですよ」
母親はそう言って僕の左肩を軽く叩いた。
どうやら何かあると人の肩を叩くのが、こと人のクセらしい。
「さあ、こうしちゃいられない」
秦野さんはパンと両手を叩いて階段を上っていった。
僕は、しばらく状況が飲み込めないまま、誰もいなくなった玄関を見つめていた。
アブラセミの鳴き声がひぐらしに変わっている。
汗で濡れた首筋に、冷たい風が吹きかけてきて、僕はぶるっと我を取り戻し、ゆっくりと階段を上っていった。
部屋に戻り、壁に寄りかかって煙草を吸っていると、隣から秦野さんの鼻歌が聞こえてきた。
テレビの音ではなく、音楽でもなく、明らかに鼻歌だった。
しかもかなりハッキリと聞こえる。
秦野さんの息遣いも、手で何かを掴む音も、足音も。
まさか、ここまで壁が薄いとは思っていなかった僕は怪訝な顔で壁に耳をあてる。
壁は土壁でひんやり冷たく、剥がれた土がパラパラと畳の上にこぼれていた。
僕は人差し指でその土を拾い、さてこの先どうするかと考えていると、一筋の光が目に入ってきた。
土の壁と壁の板の間から、こぼれ落ちる淡い一筋の光。
薄暗くなった僕の部屋に射し込んでくる淡い一筋の光。
四つん這いになりながら、赤ちゃんのように光の射す方へ進んでいくと、そこに3ミリほどのすき間があった。
(マジかよ・・・穴が開いてるじゃん。これは壁が薄いどころの騒ぎではないぞ・・・)
僕は、無意識にその「すき間」を覗き込んだ。
すろと、山積みにされた段ボール箱を開けて、荷ほどきをしている秦野さんが見えた。
僕は「はあ・・・」というため息をついて、このことを大家さんと秦野さんに伝えようと思って腰をあげた。
しかし、「ここにすき間が開いてますよ」と伝えたところで、僕ら住人にはどうすることもできないだろう。
大家さんに「修理するから出て行ってくれ」なんて言われたら、たまったものじゃない。
この「すき間」は埋まらないのだ。
きっと、ここに住む以上は仕方のないことなのだ。
僕は諦めて、スタンドライトの豆電球の心許ない光を頼りに、小林多喜二の「蟹工船」を読もうと、あぐらをかいた。
しかし、背後から聞こえる秦野さんの段ボールを畳む音が気になって、ちっとも読めず、いつのまにか眠ってしまった。