コラム

イタバシュラン短編小説集『大根女優』第八話

それから僕は、たまに秦野さんの朝ご飯をご馳走になったり、時折、僕の読み終わった本を貸したり、ラーメンを食べに行ったり、しばしば居酒屋に飲みに行ったりした。

秦野さんは非常に活動的で、早々に小劇団への入所を決めた。

それは、下北沢の小劇場を中心に活動しているコメディ劇団だった。

予定していたミュージカルの壁は想像以上に高く、経験のない秦野さんを使ってくれるところはなかったらしい。

それでも秦野さんは、20代の若者に混ざって、稽古やチケット売りをこなす日常を送っていた。

僕は、何度か秦野さんの舞台を観に行った。

30人も入れば、ぎゅうぎゅうになるくらい狭い芝居小屋だったけれど、秦野さんは実にハツラツと「役者」をやっていた。

セリフも棒読みで、動きは角ばっていて、ずぶの素人には違いなかったが、他の役者とは一線を画した雰囲気をした秦野さんの芝居は、それが「個性」になっているような気がした。

僕は、普段の生活の中で、やはり「すき間」を気にするようになった。

あまりテレビを見なくなったし、音楽もヘッドフォンで聞くようになった。

しばらくすると電気もつけなくなった。

家にいるときは、なるべく音を出さずにひっそりと過ごした。

時々、申し訳ないと思いながらも、「すき間」から秦野さんの部屋を覗いた。

ある時は楽しそうに台本を朗読していたし、ある時は真剣な顔で僕の貸した本を読んでいた。

ある時は、ゆだんした顔でポテトチップスをバリバリと食べながら横になってテレビを見ているし、ある時は神妙な顔で誰かと電話で話していた。

僕はそんな秦野さんを見ているとなぜか安心した。

図々しいけれど、1人じゃないと思えたんだ。

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