すき間越しに秦野さんの部屋の時計を見て、時間を確認しようとするが、時計が見当たらない。
「わたしね、明日ここを出るの。もうそろそろタイムアップだから」
僕は初めて秦野さんとご飯を食べた時のことを思い出した。
「1年間の期間限定で」と秦野さんは言っていた。
もうあれから1年も経つことになる。
「そうですか・・・。寂しくなりますね。もう秦野さんの作ったご飯を食べることができないと思うと」
「松本さん、美味しそうに食べてくれましたよね。わたしも作り甲斐がありましたよ」
「いや、本当に美味しかったんですよ」
「こんな狭いキッチンだったけど、その気になれば色々と作れるものですね。煮物も揚げ物も、最終的にはパエリアも作った」
「多分ここでパエリア作った人、秦野さんが最初で最後ですよ」
「たしかに、そうかもね」
「あの・・・どうでしたか?たった1年間でしたけど。やりきりましたか?」
「いろんなことがあったなあ。あっという間でした。結局役者としては3回しか舞台に立てなかった。そんなに甘くないですよね。でも、いっぱい笑ったし、いっぱい泣けました。多分人生で1番辛かったけど、こんなに楽しいことはなかったな」
「そうですか」
「自分の子供くらい年の離れた先輩達にさ、最初は気を使われていたんだけれど最後の方なんて、おい秦野!てめえ何回言ったら分かるんだよ!なんて怒鳴られたりして」
「厳しい世界ですよね」
「でも、公演が終わったらみんなで朝まで飲んでギャーギャー騒いでワーワー泣いたりして・・・。こんな言い方申し訳ないけど学生時代に戻ったみたいで本当に充実してた」
「学生時代・・ですか」
「こんなおばさんにさ、みんなもやりづらかっただろうにね」
秦野さんは、そう言うと何かを思い出したのか涙を拭った。
僕は、すき間越しに語り掛ける。
「それはきっと、秦野さんが真剣に取り組んだからですよ。僕らの世代って、あんまり年上の人と同じ目線で何かをやるってことないから。多分、劇団の人達もいい経験になったんじゃないですかね」
「そうだといいけど」
「もう、やらないんですか?芝居は」
「うん、1年間の期間限定だから」
「そうですか。もったいないなあ」
「松本さん」
「はい」
「こっちで少し飲みませんか。少しだけど、おでんがあるんです」
「いいですねえ。あ、ちょうど実家から日本酒が送られてきたんですよ。秦野さんの煮込んだ大根本当に美味しいから。今行きますね」
僕は、飛び起きて家から送られてきた日本酒の瓶と紙コップを持って部屋を出た。