久しぶりに入る秦野さんの部屋は、もうすっかり片付いていて何にもなかった。
タッパに入ったおでんと、割り箸と小さなリュックがあるだけだ。
小さなテーブルが置いてあったところに秦野さんは座っていて、僕の顔と日本酒を見るなり満面の笑みを浮かべた。
「では、秦野さん。1年間お疲れ様でした。乾杯」
「乾杯。ありがとう。松本さんお世話になりました」
紙コップと紙コップが重なりあって乾いた音を出した。
タッパに入ったおでんを温めるものはなかったけれど 常温でもまったく問題がないほど秦野さんのおでんは美味しかった。
お目当ての大根は、芯まで茶色くたっぷりと煮汁を染み込ませて、茶色く煮詰まった玉子の横で存在感を示している。
「松本さんは、大学を卒業したらどうするの?やっぱりあれだけ本読んでるとなると国語の先生とか?」
「いやいや、教員なんて無理ですよ。何になるんですかねえ。全然やりたいことが思い浮かばないんですよ」
「これからですよ。何も思い浮かばないってことは何にでもなれるってことだから」
「そうですかね」
「きっと松本さんなら、どんな職業についても松本さんらしく生きれますよ。優しいし、きっと素敵な人生を歩むと思うな」
「そんなことないですよ。僕は人と話すのが苦手だし、頭だってよくないんです。ただ本を読むのがすきなだけで」
「そんなことないわよ」
「多分、僕はずっとここにいますよ。ボロ屋だけどなかなかこれでいて居心地がいいんですよね、この部屋」
僕らは、ちょっとずつおでんをつまみながら、たわいもない話をたくさんした。
どのくらい時間が経っただろうか。
日本酒を半分ほど空けた頃、酔いが回った僕は、共同便所に行き、用を足した。
千鳥足で秦野さんの部屋に戻ると、そこに秦野さんはいなくなっていた。
(あれ、コンビニでも行ったのか)
僕がそう思っていると、すき間からひっそりとした声が聞こえてきた。
「松本さん。こっちこっち」
僕は、誰もいない秦野さんの部屋のすき間から、僕の部屋を覗いてみる。
すると、秦野さんが僕の部屋から笑いながらこっちを覗いていた。
まるでいたずら好きの子供のような目で。
自分の部屋に戻ると、もう何ヶ月も干していない布団の上に秦野さんが座っていた。