電車に乗る気がしなかった僕は、幡ヶ谷から板橋まで歩いて帰ることにした。
僕は朝から何も食べていないことに気づいた。
こんな時にでも腹は減る。
今思えば、引っ越して来た時に一緒にいた女も娘ではなかったのだろうか。
怪しまれないように僕に嘘をついて暮らして、本当の秦野さんはずるくて汚くて嫌な人間だったのだろうか。
僕はやるべきことはやった。
僕に関していえば実質的被害は何もない。
隣に変わり者のおばさんが住んでいた。
ただそれだけの話だ。
秦野さんが今もどこかで幸せに暮らしているならそれでいい。
それでいいじゃないか。
新宿三丁目の交差点を右折して、環七をトボトボと歩く。
排気ガスと砂ぼこりが都会の空を黒く染めていく。
脳裏に秦野さんが作った大根の煮物がよぎる。
僕は何気ない毎日を、ただ漠然と過ごしていた。
秦野さんは、あのすき間の向こうで何を考えていたのだろう。
何が真実で、何が嘘なのかは分からない。
だけど、あの時作ってくれた温かい、優しい大根の味は、嘘なんかじゃない。
僕は、あの味に救われたんだ。
秦野さんと過ごした日々は嘘なんかじゃない。
舞台の上で、必死に若者と闘って、真剣に台本を覚えて、女優を目指した秦野さんの1年は嘘なんかじゃない。
なんで言ってくれなかったんだろう。
苦しいって、言ってくれなかったんだろう。
すき間越しにでもいいから、消え入りそうな声でもいいから。
大きなトラックがクラクションを鳴らして僕を追い越していく。
どのくらい歩いただろう。
僕は2時間ほどかけて板橋のアパートにたどり着いた。
身体中が痛くて、足も自分のものではないように痛い。
僕は、鍵のかかっていない部屋を開けて、布団に倒れ込んだ。
無性に腹が減っていたけれど、もうその感情も忘れてしまいたいくらいすべてに疲れ果てていた。