淡い光の向こうから、優しくて甘くて、懐かしいにおいが漂ってくる。
そこには、いつかのように、エプロンをしてキッチンに立っている秦野さんがいた。
楽しそうに、鼻歌を歌いながら、白い湯気をたてながら鍋を煮込んでいる。
それが何であるのか、僕にはすぐに分かった。
「秦野さん・・・」
思わず、すき間越しに声をかける。
気づいたのか、気づいていないのか、秦野さんは笑顔を浮かべて鍋をゆっくりとかき混ぜている。
「僕、待ってたんですよ」
テーブルの上にはガラスの皿に盛られたサラダと、コースターが2人分用意されている。
「ずっと待ってたんですよ」
秦野さんは、右に左にゆっくり揺れる。自分の鼻歌に合わせて、小刻みにリズムを取っている。
「秦野さん・・・無事でよかった」
たとえ、生き方が多少いびつでも、下手くそでも、曲がりくねっていても、それでもいいじゃないか。誰にでも間違いはあるし、言いたくないことも、隠したいこともあるさ。
失敗したら、また、やり直せばいいじゃないか。長い時間をかけてやり直せばいいじゃないか。
たとえ最初は、白くて硬くて苦くても、じっくり煮込めば、味が染み渡って柔らかくなる大根のように。
僕らは何度だってやり直せるさ。
たとえそれがどんな結末を迎えても。何度だって。
生温かい涙が、乾燥した僕の頬を濡らす。
秦野さんは、大きなお皿に、湯気の立った茶色い大根を一個、二個、三個と盛っていく。
大根はやがてお皿いっぱいになった。
秦野さんは、大根が盛り付けられたお皿を両手で持って振り向くと、照れくさそうに言った。
「帰ってきちゃった」
その姿は、いつかの夏の昼に見た秦野さんのようではなく、舞台上で見た芝居をしている秦野さんのようでもなく、僕の布団で静かに眠った秦野さんのようでもなかった。それは、まぎれもなく、この板橋のボロアパートで再スタートを切ろうとしている秦野さんの姿だった。
「おかえりなさい、秦野さん」
すき間から差している淡い一筋の光は、まるで舞台を照らすスポットライトのように見える。僕は、はにかんだ笑顔をみせる秦野さんをいつまでも見つめていた。
完