秦野さんの部屋は見違える程に綺麗になっていた。
あの山積みされた段ボールの面影はない。
アルミラックを器用に使い、小物やテレビなどが丁寧に整理されていて、それぞれが最適の居場所に収まっ ているように見えた。
部屋の真ん中には、小さな赤い折りたたみテーブルが置かれていて、そこにはもう 、2人分の茶碗と箸が置かれていた。
僕は、パジャマ姿でノソノソと上がり込み、首を回すことなどしなくても見渡せる秦野さんの部屋を大袈裟にぐるっと見回した。
「いやあ、一晩でここまで片付いたんですね」
秦野さんは嬉しそうに「部屋が狭いから意外と早くって」と言った。
そして、おままごとのような台所から、茄子の浅漬けと大根の煮物を持ってテーブルの上に乗せた。
ふんわりとした湯気が立ち上る。
見るからに味のしみわたった柔らかそうな大根。
「IHコンロなんて使ったことなかったけど、案外作れるものね。魚が焼けないのは残念だけど」
秦野さんは、そういうと僕の前に白飯を置いた。
米が光っているのは陽射しのせいか、炊き方が良いからか。
米粒はふっくらとしてつやがあり、僕はゴクリと生唾を飲んだ。
「さあ、どうぞ。召し上がれ」
僕は、秦野さんと向かい合わせに座り、2 人でいただきますと手を合わせた。
さっそく大根に手を伸ばすと優しく掴んだはずなのに、煮汁をたっぷりと吸い込んだ大根は、緩やかに2つに割れた。
僕はそれを白飯の上にのせて 豪快に口に運ぶと、大根はあっという間に口の中で溶けて無くなった。
大根の汁が染み渡った白米が、口の中で愉快に踊る。
予想を2つ3つ上回る美味さが口の中に広がった。
「美味しいです。いやあ、こんなに美味しい朝ご飯は初めてですよ」
僕は 、お世辞ではなく、素直にそう言った。
秦野さんは目を見開いて微笑み、分かりやすく喜んだ。
僕は考えた。
(どうしてこんなに美味しいご飯を作れる人が、こんなところで一人暮らしなんて始めたのだろう)
聞 きたい。
だが、離婚とか、そういう何か悲しい事情だとしたら、失礼にあたるのではないか。
秦野さんの身なりも、部屋の中も、このアパートの住人とは思えないほど小綺麗なものだった。
だからこそ現実感がない。
この部屋には、秦野さんが茄子の浅漬けを遠慮がちに噛む音と、テレビの横に置かれた黄色い目覚まし時計が時を刻む音だけが存在している。
「どうして引っ越してきたのかって思ってる?」
秦野さんは、ふいに僕にそう言った。
「え?」
「なんか、聞きたいけど聞けないっていう顔してるから」
「いやあ。まあ、このアパートには似つかわしくないなあって思いまして。その、色々と事情があるのかなあとも・・・なんかすんません」
意表を突かれて、しどろもどろする僕を見て秦野さんはクスクスと笑った。