コラム

イタバシュラン短編小説集『大根女優』第十七話

電車に乗る気がしなかった僕は、幡ヶ谷から板橋まで歩いて帰ることにした。

僕は朝から何も食べていないことに気づいた。

こんな時にでも腹は減る。

今思えば、引っ越して来た時に一緒にいた女も娘ではなかったのだろうか。

怪しまれないように僕に嘘をついて暮らして、本当の秦野さんはずるくて汚くて嫌な人間だったのだろうか。

僕はやるべきことはやった。

僕に関していえば実質的被害は何もない。

隣に変わり者のおばさんが住んでいた。

ただそれだけの話だ。

秦野さんが今もどこかで幸せに暮らしているならそれでいい。

それでいいじゃないか。

新宿三丁目の交差点を右折して、環七をトボトボと歩く。

排気ガスと砂ぼこりが都会の空を黒く染めていく。

脳裏に秦野さんが作った大根の煮物がよぎる。

僕は何気ない毎日を、ただ漠然と過ごしていた。

秦野さんは、あのすき間の向こうで何を考えていたのだろう。

何が真実で、何が嘘なのかは分からない。

だけど、あの時作ってくれた温かい、優しい大根の味は、嘘なんかじゃない。

僕は、あの味に救われたんだ。

秦野さんと過ごした日々は嘘なんかじゃない。

舞台の上で、必死に若者と闘って、真剣に台本を覚えて、女優を目指した秦野さんの1年は嘘なんかじゃない。

なんで言ってくれなかったんだろう。

苦しいって、言ってくれなかったんだろう。

すき間越しにでもいいから、消え入りそうな声でもいいから。

大きなトラックがクラクションを鳴らして僕を追い越していく。

どのくらい歩いただろう。

僕は2時間ほどかけて板橋のアパートにたどり着いた。

身体中が痛くて、足も自分のものではないように痛い。

僕は、鍵のかかっていない部屋を開けて、布団に倒れ込んだ。

無性に腹が減っていたけれど、もうその感情も忘れてしまいたいくらいすべてに疲れ果てていた。

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