岩手の高校を卒業して、東京の大学に通いはじめた僕が初めて住んだ街は板橋だった。
「1人暮らし」なんて響きはいいものの、トイレ共同、風呂なしの木造二階のボロアパートだ。
家賃は25000円。
板橋駅から20分も歩くのは流石にこたえたが、洗濯機が使い放題のところと、部屋の窓から見える寺院が、夜になるとライトアップされ、それを見つめているとまるで都会にはいるようには思えず、田舎にある農村公園にいるようで不思議と心が落ち着くのだった。
僕は近所にあった辛うじて息をしているような古本屋に足繁く通い、そこにしか置いてないような古い小説に夢中になった。
一冊読んでは、また買いに行って・・・を繰り返しているうちに店主の爺さんと仲良くなって、いくらか会話もするようになった。
大学が夏休みに入って、友達もろくに作らずに読書ばかりしていた僕は、いつものように家で、うだるような暑さの中、夢野久作の「少女地獄」を読み終わって、次は何を読もうか考えていた。
天井の木目をぼんやりと見つめながら、時折入ってくる気まぐれな風を待っていた。
このまま眠ってしまおうかと思った時、大きな車が止まる音が聞こえた。
引っ越しだろうか。
聞き耳をたてるわけではなく、自然と入ってくる音を受け入れていると女性の声が聞こえてきた。
若い女の声と、年配の女の声。
どうやら親子のようだ。
車の中から荷物を引っ張り出して、「そっち大丈夫?」「ちょっと一回そっち逃げた方いいよ」とかそういう声が聞こえてきた。
邪気のないその声にも慣れて、丁度よく気持ちの良い風が網戸をすり抜けて入ってきたこともあり、このまま眠ってしまおうと覚悟を決めた時だった。
「ひゃっ」
悲鳴とともに、ガラスや茶碗が割れる音がして僕の眠気は掻き消された。
何事かと思って窓から中庭を見下ろしてみると、一台のハイエースが止まっていて、その後ろで、戸棚が無残な姿で横たわっていた。
母親だろうか、割れたガラスの破片を集めながら、娘らしい女性に言った。
「だから言ったじゃない。外さないとダメだって。ああ、もう。これどうするの。使い物にならないじゃない」
娘は、手で顔を仰ぎながら、絡みつくような暑さの根源である太陽を睨みつけた。
瞬間、窓から顔を出して、様子を見つめていた僕と目が合った。
僕らは、どちらからともなくペコリと頭を下げた。
僕は、珍しく「手伝いましょうか。」と声をかけた。
人見知りの僕が他人に話しかけるなんて、初めての経験だったかもしれない。
それでも、その時は自然と口から言葉が出ていた。
娘の返事を待たずに、僕は布団の上からジャージを取って履いて扇風機の上で干していたタオルを頭に巻いて階段を降りていった。