僕は、玄関からチリトリと竹ぼうきをもってサンダルを履いて外へ出た。
外の方が部屋の中より涼しい。
素手でガラスを拾っていた母親に「怪我しますから。大丈夫ですよ」と声をかけてほうきでガラスの破片を集めた。
母親は「あら、すみません。ほんとにすみませんねえ」と頭を下げた。
古めのハイエースの中には、びっしりと段ボールが詰まっていて、とてもじゃないけど四畳半一間の部屋には収まりそうもないと思った。
僕は「部屋はどこですか」と手前の段ボールに手をかけて娘の方を見て言った。
娘は「203号室です。すみません」と頭を下げた。
僕の隣の部屋だ。
そういえば僕の隣の部屋は空き部屋だった。
僕は少し落胆した。
見るからに壁が薄いこのアパート、隣人がいないというのは密かな特権でもあったのだ。
娘は、見るからに多感な大学生という雰囲気で、気の強そうな顔をしている。
きっと、テレビの音、音楽を聞く音、電話で彼氏と話す音、おならだって聞こえるかもしれない。
僕はこうして顔を合わせてしまったことを少し後悔していた。
やたらと重い段ボールを抱えて階段を上る。
僕らは、3人で協力してその段ボールの山を部屋に押し込んだ。
荷物を運び終えた頃、母親がアパートの前の自販機からコーラを3本買ってきて、そのうちの1本を僕に渡した。
キンキンに冷えたコーラは乾いた喉に染みるように入ってきて 目眩がするくらい美味しかった。
足の踏み場のない203号室で、段ボールの山を見つめていると、夕焼け小焼けのチャイムが鳴った。
親子は、その音に驚いて段ボールと段ボールのすき間から窓の外を見つめた。
僕はその様子が少し面白くて「17 時になると鳴るんですよ」と笑った。
僕も、初めてこのアパートに来た時に防災試験を知らせるチャイムに驚いたものだ。
おそらくスピーカーが近くにあるのだろう。
初めての人はたいがい驚くはずだ。
「もうそんな時間?そろそろ帰らないと」
母親は、コーラを飲み干すと僕に「少しばかりだけど」と言って財布を取り出そうとした。
僕は「いやいや、そういうつもりではないので」と断り、何度か押しては引いてのやりとりを繰り返し、やっとの思いで母親の手を引っ込めさせた。
僕の母親と同じくらいだろうか。
ファンデーションでは隠しきれない”しわ”が汗と疲れで露わになっている。
白い T シャツにブラジャーの線が見えて、僕は慌てて顔を逸 らした。
3人で階段を降りる。
娘は玄関で靴を履きながら「でも安心した。隣の人もいい人だし、東京にもいるんだね。冷たい人ばかりなのかなって思ってたから」そう言って舌を出して笑った。
母親は「バカ、もう」と言って、娘の肩を軽く叩いた。
22人のやりとりをみながら、僕は腰に手をあてて力なく笑った。
「じゃあね。ちゃんと何かあったら連絡してね」
娘はそういうとハイエースに乗り込み、僕に頭を下げるなりさっさと行ってしまった。
僕は状況が呑み込めず、母親を見るも、母親は、ウインカーを出して左に曲がっていったハイエースの残像を微笑みながら見つめている。
「あれ、え?」
僕は状況を把握できずに、消えたハイエースの残像が残る空間を指差して交互に母親を見た。
母親は、僕に気づくと少し首を傾げてから、
「203号室でお世話になります。秦野と申します」
あらためてそういうと、しばらく頭を下げていた。