JR板橋駅前のツタヤの前にある踏切を渡って右に折れ、すれ違うのも難しいほどの細い飲み屋街を歩く。
前に一度だけ行ったことがある、BAR「ファンファーレ」に僕は向かった。
扉を開けると、カウンターに座っていたマスターが、僕の顔を見るなり微笑んだ。
「いらっしゃいませ。一日お疲れさまでした。」
僕は小さく頷いて店内に入る。カウンター席3つと、テーブル席が2つあるだけの店内は、週末だというのにガランとしている。
「1人だけど、いいかな」
絞り出すように声を出す。僕はこの時初めて、自分が久しぶりに声を発したことに気づいた。
「もちろんです。助かります」
マスターはそう言うと、手慣れた様子で僕におしぼりを差し出すと、誰にでもなく小声で「ビールですよね」と呟くと、冷蔵庫から瓶ビールとグラスを差し出してくれた。
「よく、覚えてくれてたね。1回しかきたことないのに」
僕がそう声をかけると、マスターは照れた様子で「仕事ですから」と答えた。
薄暗い店内に、薄く洋楽が流れている。僕はマスターの何気ない言葉と気遣いに気分を良くする。
「マスターも、もし良かったら一杯どうぞ」
「ありがとうございます。いただきます」
「週末なのに、少し寂しいね」
「そうですね。急に寒くなりましたし。まあ、この後混んでくれることを期待します」
マスターの笑顔を見て、ビールに口をつける。
数か月前に、夏が終わるころに一度だけここを訪れたことがある。
僕はその日、可愛がっていた以前の職場の後輩と飲んでいて、珍しくもう1軒だけ行こうと盛り上がり、この店に入ったのだった。
居酒屋ではハクがつかない、キャバクラでは落ち着かない、そんな僕がくだした結論がBARだった。
後輩を連れて、気を大きくした僕は普段訪れることもないBARの敷居を跨いだ。
確か、以前もカウンターに座り、4.5杯飲んで、マスターとも一言二言会話をした。
それだけの店だった。僕はその後、仕事に追われ、後輩とも疎遠になり、気が付いたらこの店の存在も忘れ、そして冬を迎えようとしている。
2杯目のビールを飲み干して、カウンターに並べられた酒の瓶を眺めながら、3杯目をハーパーソーダにしようか悩んでいた。
ガチャ
扉を開ける音がして、ふいに乾いた冷気が店内に入ってくる。
「いらっしゃいませ」
「1人なんですけど・・・いいですか?」
「もちろんです。どうぞ、寒いので中にお入りください」
僕が座っている席からは、見えないが、声で女性だということは分かった。
「お席はカウンターでも、テーブルでもどちらでも結構ですよ。」
「1人だから・・・すいません、となりいいですか?」
「はい、もちろんです。」
僕はリュックを足元に避けて、席を作る。
女性がつけている甘い香水の匂いがほのかに香る。
3人で過ごす板橋の夜が始まった。