「ここにあるものでしたら、どれでも1杯500円でお作りします。いかがなさいますか?」
マスターがそう声をかけると、女性は少し迷ってジンジャーハイボールを注文し、僕も同じのをくださいと続ける。
静寂を打ち消すように、流れている洋楽が、アイムノットインラブだということにサビの前で気づいた。
女性はコートをハンガーにかけると、白い手編みのニットにかかった長い髪を左手で丁寧にかき分ける。またふいに甘い匂いがした。
「お仕事帰りですか?」
グラスに氷を入れながら、マスターが女性に声をかける。
「はい。まっすぐ帰ろうと思ったんだけど、何だかこのまま帰るのが嫌になって」
女性はそう言うと、上品に笑った。
「そういう日もありますよ」
マスターはそう言うと、ジンジャーハイボールを2つカウンターに差し出した。
女性は「ありがとう」と小声で言うと、両手でグラスをもって静かにグラスに口をつけた。
「あぁ、美味しい」
僕は女性の発したその一言が心に染みる気がした。
どこで飲んでもジンジャーハイボールはジンジャーハイボールだ。だけど、この女性はきっと色々なことがあった一日の終わりにこの店を選び、そして頑張って乗り越えた自分に対するご褒美でお酒を飲んだ。それはお酒の味や香りではなく、きっともう1人の自分に乾杯して発した言葉なのだろう。僕はその気持ちが嫌というほど分かる。
「お疲れさまでした」
僕はそう言うと女性のグラスに自分のグラスを重ねた。
「ありがとうございます。今日はお仕事だったんですか?」
「はい、なんだか最近忙しくて。ちょっとこのまま帰りたくなくて。さっき聞こえてしまったんですけど・・なんていうか同じような理由でここに来ました」
「そうだったんですか。色々とお忙しいんですね」
「なんだか、分からなくなる時がありますよ。何のために働いているのか。忙しくて時間に追われて、やっと迎えた休みは死んだように寝る。そんなことを繰り返していると、ふいに寂しくなっちゃうんですよね。俺、なにしてるんだろうって」
「分かります。私も仕事が終わるのが遅くて、ご飯を食べるのも作業になってて・・。もちろん仕事が忙しいって幸せなことなんですけどね。でも、たまには気を抜きたくなることもありますよね」
女性はそう言うとグラスを置いて、何かを思い出しているかのように細い指でグラスについた水滴をなぞった。
手持ち無沙汰になった僕は、煙草に火をつける。薄い煙は、ウイスキーや焼酎の瓶の上を回遊し、やがて薄暗い闇の中に消えていく。
店内にJohn Legendの「All of Me」が流れると、女性は「好きなんです。この曲」と言って微笑んだ。
「いい曲ですよね」
マスターが頷く。
「なんだか・・良いですね。今日まっすぐ帰らなくて良かった」
女性はそう言うと再びグラスを手に持つ。
透明な涙が浮かんだ大きな瞳を潤ませながら。