名前を聞くと、女性は「マキって呼んでください」と言った。
僕らは、一瞬だけ訪れた僅かな休息を確かめるように、噛みしめるように夜を過ごしている。
お酒を飲みながら、音楽を聴きながら、たわいもない話をしながら・・。
再び訪れる朝を恐れるように、受け入れるように、少しずつ少しずつ時間を重ねていく。
僕はこの夜が終わってしまうのが嫌で、お酒を飲み続ける。
「マスター、もう1杯だけ。ソーダ割をください」
「ありがとうございます。・・あ、炭酸が切れちゃってますね。すいません、ちょっと買ってきます」
「そうですか、じゃあ水割りでもいいですよ」
「いえいえ、買ってきますよ。すぐそこにコンビニがあるんで。ちょっとお待ちください」
マスターはそう言うとダウンジャケットを羽織って外に飛び出した。
「なんか、悪い事しちゃったかな・・」
「外、寒いですからね」
時計は3時を回っていた。どうやらこのまま新たな客が入ることはなく朝を迎えそうだ。
マスターが出ていった余韻の寒さが現実を知らせる。
「すごい寒い。まだ12月なのに」
マキさんはそう言うと微かに震えた。小さな両手を広げて息を吐きかける。
「若干、息が白くないですか?」
「あ、ほんとだ。」
「手も、ほら」
マキさんはそう言うと両手で僕の右手を包み込んだ。冷たい掌の下に宿る微かな温もりが僕の中に入ってくる。
「・・・冷たいですけど、なんかあったかいです」
「なんですか、それ。意味が分からないです」
マキさんはそう言うと楽しそうに笑った。
僕らはしばらくそのまま手を重ねていた。
「今、お客さんがきたらびっくりしちゃいますね」
「本当ですね。マスターいないし、客は手を繋いでるし」
「もし来たら、どっちがお酒作ります?」
「僕やりますよ、だってただ割るだけでしょ?」
「違いますよ。意外と難しいんですよ。お客さんによって好みも違うし。」
「そういうものなんですか・・」
会話の内容なんてどうでもよかった。ただただ、手の温度が少しずつ温まってきて、存在を確かに感じられているのが嬉しかった。僕は甘えるとか、救われるとか、優しくされたいといった願望をどこかに忘れていたのだろう。少しでも長く、こうしていたい。素直にそう思った。35年間、重ねてきた僕の人生の夜の中で、こんなに眩しい夜は無かった気がする。
ガチャ
扉が開く音がする。
僕らはどちらからともなく、重ねた手を静かに外す。
「外、すごい寒いですよ。もう雪が降りそうなくらい」
マスターはそう言うと、いやー、まいったまいったと言いながらダウンジャケットを脱いだ。
「じゃあ、そろそろ帰ろうかな。これ良かったら・・」
マキさんはそう言うと、バッグから歌舞伎揚げを取り出し、カウンターに置いた。
板橋の小さな夜が終わろうとしている。